LOGIN「もう一つ、条件があります」 低く落ち着いた声で、龍一が静かに切り出した。 個室には高級ホテル特有の重厚な空気が満ち、窓の外では関西の夜景がぼんやりと滲んで見える。 熱気でも冷気でもない、ただただ圧のある沈黙がふたりを包んだ。 天城壮真の細い目が、再び龍一の方へ向けられる。 その目は笑っていない。獲物を観察する捕食者のような、冷酷な光を宿していた。 龍一はその視線を真正面から受け止め、微動だにせずに告げる。 「関西の港湾ルート――黎明コーポレーションが“一手に引き受ける”。 あなたには、そこから手を引いてもらいたい」 一瞬。 個室の空気が、ぴたりと止まった。 オーク材のテーブルの上に置かれた天城の指が、かすかに揺れる。 それは怒りの予兆にも、笑いの予兆にも見えた。 「……お前、本気で言うてるんか?」 天城の声は、底の方で地鳴りのように響いた。 濁りはなく、ただ純粋な“脅威”だけが含まれている。 「本気です。天城会にとっても、得はありません。 あなたは別ルートで利益を取ればいい。わざわざ港湾利権に縛られる必要はないはずです」 龍一は、穏やかな表情のまま淡々と続けた。 その眼差しには、揺らぎも迷いもなかった。 「舐めとんのか、ワレ。あそこは関西の心臓やぞ」 天城の低い声が、個室の空気をさらに重くする。 静かに座っているだけなのに、その存在感は巨大なものがゆっくり動き出す様に似ていた。 だが龍一はまったく怯まなかった。 「天城さん。“心臓”は、いつか必ず狙われる。あなたほどの人なら分かるはずだ。なら――外に置いた方が安全でしょう?」 その一言は、まるで深い暗闇に石を投げ込んだかのように響いた。 数秒。 長いようで、永遠にも感じられる沈黙。 天城の視線と龍一の視線が真っ向からぶつかりあう。 そこには恐れも怯えもなく、ただ目的を巡る純粋な力と力の衝突だけがあった。 ソファに沈む天城の指が、ぴたりと止まる。 「……なるほど。あんた、ほんま腹の底まで黒いな」 鋭い視線のまま、天城が低く言う。 「よく言われます」 龍一が淡々と返すと、天城はふっと笑った。 その笑みには毒が混じるが、どこか愉悦の影もある。 気に入らなければ殺していた――そんな気配さえ漂う笑いだった。 「ええで。港
大阪国際空港――。 深夜便が途絶えた滑走路には、わずかな誘導灯だけが点々と続き、冬の冷たい空気が静けさを際立たせていた。 その静寂を切り裂くように、一機のプライベートジェットが滑走路へ降り立つ。 重厚なエンジン音を残しながら停止すると、タラップがゆっくりと降ろされる。 そこから姿を現したのは、黒いチェスターコートを羽織り、鋭い双眸を細める男――天城壮真。 「……黒澤は、間に合わせられへんかったか」 ぽつりとこぼれた言葉は、怒りではなく、冷たい諦観の響きを含んでいた。 天城会を束ねる関西の獅子。 関西裏社会の均衡すら動かす“化け物”と恐れられる男。 その男の表情に、いま確かな幻滅が浮かんでいた。 「そろそろ――“切り捨てる”時期かもしれへんなぁ」 その瞬間だった。「おかえりなさい、天城会長」 無音に近い歩調で近づいてきた影。 天城が顔を向けると、タラップの灯りに照らされ、コートの襟を立てた長身の男が立っていた。 桐島龍一。 桐島コンツェルンの表向きの顧問にして、実際は関東全域の全ての情報網を握る“影の実力者”。 その目には――まったく怯えがない。 「……あんたか。なんや、うちに挨拶でもしに来たんか?」 「状況を伝えに来ただけですよ。天城さんとは直接話す必要があったので」 龍一は柔らかな笑みを浮かべ、天城に一歩近づく。 天城の背後の部下たちは、警戒して手を伸ばしかけたが、 天城が手をひと振りすると、それだけで全員が沈黙した。 「場所を変えましょう。ここでは落ち着かない」 「……せやな。ええとこ用意しとる」 二人は無言で歩きながら、空港職員すら知らない導線へ向かう。 そして案内されたのは――空港の最奥にある、 VIPラウンジの完全個室。 扉が閉まると同時に、外界の音が完全に遮断された。 革張りのソファに腰を下ろす天城の前に、 龍一が静かにカバンを置いた。 「――結論から言います」 「おう」 「黒澤と、西條組の鷲尾。二人は、あなたを出し抜こうとして動いていました」 天城の瞳が、細く、鋭く光る。 「ほぉ……それで、どこまで知っとる?」 「成瀬 玲の拉致計画、そして――港湾ルートを乗っ取って、独自に“裏金”を流すつもりだった」 天城の眉がピクリと動く。 「やっぱり裏切っとったか、あ
一方、玲の周囲にも危険は迫っていた。 大地の後ろに、もう一人の黒服が影のように近づいていた。「大地くん!」 玲が叫んだ。 大地は彼女の声に反応し、振り向くと同時に構えを取る。 男の腕が玲の腕に伸びかけていた。「触んな!」 大地はその腕を掴み、肩ごと回転して背負い投げの形で叩きつけた。 骨の折れるような音が響く。 大地は舌打ちしながら倒れた男を蹴り飛ばした。「っせぇ……マジで何人来るんだよ」 玲は大地の背中にしがみつきながら、震える声を漏らす。「大地くん……あなたたち……どうして……?」「説明はあと!今は下がって!」 大地は玲を背後に守りながら、周囲を警戒する。 目の前では瑛斗がまだ立つ男たちを完璧に無力化していく。(この二人……何者なの……?) 玲の心に渦巻いていた疑問が、恐怖の中でより鮮明になっていく。 「退け。もう勝負は見えた」 不意に、静かな声が響いた。 倒れた男たちの奥――搬入口の影から、一人の男が歩いてきた。 黒いサングラス。 黒い雨具。 冷え切った視線。 天城壮真の部下――“実行役”の男だった。 玲の背筋が凍りつく。(……この人……今までの人たちとは違う) 目が合った瞬間、心臓を掴まれたような感覚が襲った。 男は玲だけを見据え、淡々と言う。「桐島玲華。おとなしくついて来い」「……っ!」 玲の喉が締めつけられる。(どうして、私の名前を……本名は明かしてないはずなのに……!) 瑛斗がわずかに玲の前へ出る。「その名前を呼ぶな」 その声には、言葉の何倍もの殺気が混じっていた。「ここはお前たちの島じゃない。二度とその名を口にするな」 男は一度黙り、瑛斗を観察するように目を細めた。「……やはり、ただの旅行客ではなかったか」「遅いよ。気づくの」 瑛斗がわずかに笑う。 その笑みが、玲をさらに震えさせた。 優しくて穏やかな瑛斗とは、まるで別人。(瑛斗くん……あなたは……) だがその“正体”に気づくには、まだ早かった。 天城の部下は手を軽く挙げ、残っている仲間へ示した。「連れて行け。どんな手を使ってもいい」「させるか!!」 瑛斗が歩を進めると同時に、男たちは一斉に動き―― 暗い砂浜で、第二波の襲撃が始まった。 その頃――神威会本部。 黒澤は電話を耳に押し当て、怒
瑛斗が男の腕を掴んだ瞬間、空気が一変した。 さっきまで気配を隠していた男たちの殺気が、波音を押しのけてビリビリと響く。「……誰だ、テメェ」 黒づくめの男が押し殺した声を漏らす。 だが瑛斗は、耳に入っていないかのように静かに答えた。「その女性から手を離せ。でないと――腕、折るぞ」 それは、今まで玲が聞いたどんな声より冷たかった。 男の握る力が一瞬緩む。 瑛斗はその隙を逃さず、玲の手首を奪い返し、男を強く弾き飛ばした。 砂浜に倒れ込む黒づくめの男。 すぐに数メートル後ろへ転がり、構えを取った。 玲はその場に後ずさり、足が砂に沈む。(瑛斗くん……今の……何?) 観光客の顔ではなかった。 あの優しさも柔らかい笑顔も、一瞬で消え失せていた。「玲ちゃん、下がって。大地の方行って」 声だけは優しい。 だがその背中には、殺気を受け止める覚悟が宿っている。 大地が玲の腕を支え、立たせる。「大丈夫です。俺がついてるから」 いつもの軽い調子ではない。 声がわずかに震えているのは、緊張ではなく怒りだ。「……連れていけ。女だけでいい」 別の黒服が合図を送る。 ビーチの両端から、さらに二人、黒い影が近づく。(三人……!) 玲は息を呑んだ。(どうしてこんな……?どうして私が……狙われてるの?) 瑛斗は玲から視線を外さず、大地に小さく指示した。「玲ちゃんを守れ。絶対に手を出させるな」「了解!!」 その言葉を確認した瞬間――瑛斗の瞳が、暗闇の中で鋭く光った。「……来いよ」 黒服たちは一斉に襲いかかった。 最初に動いたのは中央の男だった。 砂を蹴って飛び込み、拳を繰り出す。 普通の観光客なら避けることすらできない速さ。 だが瑛斗は、すでにその一歩先を読んでいた。「遅い!」 拳を半身でかわし、肘で顎を撃ち抜く。 男が苦悶の声をあげて崩れかけたところへ、追撃の蹴り。 砂が舞い、男の身体が数メートル後ろへ吹き飛んだ。(……強い) 玲は息を呑んだ。 あまりにも鮮やかで、迷いがなく、冷たすぎる動き。 瑛斗という青年が、ただの“優しい旅行青年”ではないことを証明する戦い方。「くそっ、やれ!」 二人が同時に攻め込んでくる。 一人はナイフを持ち、もう一人は素手で足を狙ってきた。 瑛斗はナイフの光
玲は、濡れた砂の上で小さく膝を抱えこむようにしゃがんでいた。 波が引くたび、白い泡が砂浜に細い線を描き、そのたびに玲のサンダルの爪先がひんやりと濡れる。雨は上がったばかりで、空には薄い雲がまだ残っている。湿った風が、玲の髪の先を軽く揺らした。 ひとりになると、どうしても蓮のことばかり考えてしまう。 どれだけ忘れようとしても、思考のどこかで必ず蓮の姿が浮かんでくる。 ――あの時。 蓮のマンションから飛び出して、何度も蓮から電話が鳴ったのに、一度も出なかった。 スマホが震えるたび胸が痛み、耳を塞いでも、あの着信音が頭の中で鳴り続けていた。(蓮は……何を言おうとしたの?) (言い訳? それとも……) どれほど考えても、蓮を憎む気持ちは不思議と一度も湧かなかった。 むしろ胸の奥には、どうしても押さえつけられない感情がまだ残っている。 ――もう一度だけ、蓮ときちんと話をしたい。 たとえ残酷な結果になったとしても。 あの女性を愛してしまった、そんな答えが返ってきたとしても。 それでも、蓮の口から直接、聞かなければいけない。玲はそう感じていた。 顔を上げると、雨上がりの海は、人影がほとんどなく、静かで、どこか心細いほどだった。 潮の匂いは薄く、波の音だけが一定のリズムで繰り返されている。(瑛斗くんも、大地くんと麻美も……今ごろ何してるかな) その顔ぶれを思い浮かべると、なぜか胸の奥がほっとした。(あの人たち……守ってくれてる気がする。どうしてそんなふうに思うのか、自分でもわからないけれど……) そう考え込んでいた、その時だった。 ――ザッ。 濡れた砂を、重い靴が踏む音がした。 玲の背筋が硬直する。 ゆっくりと振り返ると、そこには黒いフード付きジャケットを着た男が立っていた。 サングラス。伏せた顔。 表情は完全に読み取れない。 だが、その歩みには一切の迷いがなく、ためらいというものが存在しなかった。(……昨日も、見た) ホテルの裏手にいた黒づくめの影――。 あの時、一瞬だけ確かに目が合った。 その“違和感”が今、全身を一気に締めつける。 男は無言で、まっすぐ玲へ向かってくる。 玲の心臓が激しく脈打った。鼓動の音が頭の中に響く。 (なんで……こっちに来るの?) 周囲を素早く見渡し
夕方の空は、ようやく雨雲が割れ、淡い橙色の光が海面を照らし始めていた。 とはいえまだ雲は重く、島全体が静かな湿気に包まれている。 玲は、部屋にこもっていても胸のざわつきが抜けず、思い切って外に出ることにした。(……少し、歩こう) 麻美は大地と買い物に出たまま戻らないらしい。 ふたりが楽しんでいるなら、それでいいと思えた。 ホテルからビーチへ続く道は、雨に濡れた植物が光を反射して輝き、いつもより静かだった。 観光客もまばらで、波の音がよく聞こえる。 玲はサンダルのまま砂浜へ下り、波打ち際へと歩いていく。(……この波の音、落ち着く) 気持ちが沈んでいるとき、なぜか海の音は心をゆるめる。 蓮と過ごした日も、この音が何度も二人を包んでくれた。(蓮……) 胸がぎゅっと締まる。 目を閉じ、深く呼吸をした瞬間―― その柔らかな時間のすぐ外側で、別の気配が動いていた。 一方そのころ。 少し離れたビーチ沿いのカフェの陰で、大地が携帯を耳に押し当てていた。「……瑛斗さん、玲さん動きました。ビーチに向かってます」『見えてる。俺もそっち行く』「龍一さん側の護衛は?」『三名が近くにいる。でも……天城側の連中がビーチ両端に展開してる』 大地の眉が険しくなる。「マジっすか……」『黒澤残党は動いてない。つまり――』「今日、天城側の奴らが来るってことですね」『ああ。玲華様が一人になるのを待っている』 大地は周囲を警戒しながら歩き始めた。 表情は穏やかでも、その瞳は鋭い。「俺ら、どう動きます?」『まずは玲華様に近づく。こっちは表立って戦えない。観光客に見えるように立ち回る』「了解」 大地はカフェの影から抜け出し、足早に砂浜方向へ向かった。 その一方で、天城壮真の側近たちは、すでにバリで別行動を取っていた。 黒いサングラスをかけた男が、ホテルの裏手にある廃屋の影から海を眺めながら口を開く。「……桐島の娘が一人でビーチだ。今が絶好のタイミングだな」「問題はあの二人だ。瑛斗と大地……本当にただの観光客か?」 別の男が低く呟く。「あいつら、歩き方が素人じゃない。後ろの取り方も、目線の流し方も……訓練されてる」 サングラスの男は鼻で笑った。「問題ない。女だけ連れ去れればいい。本命は“桐島玲華”だ」「黒澤は







